こんにちは、ユウスケです。
なぜか日本人って自己責任論が大好きだったりします。
でもそんな自己責任論って、普通におかしいし、正しくないんです。
自己責任だと冷たくあしらっても、結局は自分も自己責任論でいつか潰されてしまいます。
それを身を持って知ってしまったら、そんな冷たいことは言えないはずです。
そんなわけでこの記事では、日本人が好きな自己責任論のおかしさについて書いていきます。
自分の人生は自己責任であって自分のせいなんだと、自分を責め続けている人の慰めにでもなればいいかなと思います。
自己責任論が好きな日本人。正しくない思想蔓延でみんなが不幸になる
自己責任論ってある程度までは正しいんです。
だって自分のしたことは自分で責任を取るということは人間の大人として当たり前のことだから。
しかし、日本ではどんなことにでも自己責任を押し付けているように思います。
2020年の初めから流行りだした新型コロナウイルスパニックでも、その自己責任論は度々語られることに。
新型コロナウイルスの拡散を防ぐため様々なイベントが中止になりましたが、その殆どが実費で保証しなければならない状況でした。
政府が自粛を半命令したのにも関わらず、その保証がないことも多くありますね。
全ては自分の人生だから自己責任であり、助ける義理はないと。
さらに遡れば自己責任論が躍動した事件がありました。
イスラム国に捕虜として捉えられた実業家・湯川遥菜とジャーナリスト・後藤健二がイスラム国により殺害された事件。
そのときも自己責任論が巻き起こり、同情はなく「そんなところに行ったお前が悪い」とだけ言って突き放すような空気感が漂いました。
でもそんな自己責任論を語る人って、それが自分に返ってくるってこと分かってるんですかね?
自分が安全な場所にいるときは上から目線で好き勝手言えますが、どんな人でも窮地に陥ることはあるし、助けが必要になる場面は必ずあります。
もし自分が被害にあったとき助けを求めても、返ってくる言葉が「自己責任でしょ」なんて言われたんじゃ、泣きっ面に蜂です。
全てを自己責任だと跳ね除ける社会じゃあ、みんなが不幸になる結果しか見えません。
『親ガチャ論』と『自己責任論』。エリートと貧困
この不景気な社会では度々貧困が取り沙汰されますが、自己責任論者は「貧困なのは自己責任」と言うでしょう。
しかし、貧困者には貧困にならざるを得なかった理由が存在し、それはどうしようにも埋められないものだったりもします。
例えば貧困家庭に生まれると経済的理由で教育の機会が奪われ、そこから抜け出すチャンスを手にすることが難しくなります。
逆に恵まれた家庭に生まれたなら教育の機会もたくさんあるし、上流階級のコミュニティーとも繋がれるので人生を発展させていくことが簡単になるということです。
そんなフェアじゃない2つを対等に見て自己責任論を振り飾るのはいかがなものかと思います。
まさに昨今の流行り造語である『親ガチャ』というやつですね。
最近になってようやく世の中は自己責任だけで片付けられるような単純なものでないことを人々が認識し始めたということです。
恵まれた環境で育った自己責任論者は、自己責任論に違和感を抱かない人も多いかと思われます。
恵まれていることが当たり前だったので、恵まれなかった人の気持ちがわからないんです。
そして自分が当たり前に享受してきた幸せや支援を、誰もがある程度同じように受けられていると自然と思ってしまうんです。
自分がどれほど与えられてきたかを理解できず、困窮者がどれほど与えられてこなかったのかを理解できないんです。
そして恵まれているからこそ、自分が自己責任論で傷つく余地がないんです。
あくまで他人事だと思っているからこそ、「貧困は自己責任論だ」なんて言えるんです。
そんな恵まれた自己責任論者が何かが原因で貧困に陥ったとき、貧困にならざるを得ない理由があるでしょうが、そのときは他の自己責任論者には「自己責任でしょ」と突き放されてどう思うんでしょうね。
自己責任論者の末路。結局全ては連帯責任になる
連帯責任とは一人がへましたらみんなも責任を負うというものですが、社会にはどうしようもなく連帯責任なんです。
でも今の日本には、全ては連帯責任だという意識が足りていないのだと思います。
例えばあまりにも悲惨な人生を送ってきた人間が、凶悪殺人犯になったとしましょう。
凶悪殺人犯は多くの人間を殺し、死刑になったとします。
でも死刑にしたとことで殺された多くの人間は帰っては来ないんですよね。
ここに連帯責任が生じています。
私たちの総意で出来上がった社会の歪が凶悪殺人犯を作ってしまったのなら、被害に合う我々はその責任を取ることになってしまったということです。
大量殺人犯に同情の余地はありませんが、そんな化け物を生んでしまったのは我々なんです。
怖いですよね。
どうしようもなく連帯責任なんです。
極端な例だけでなく、もっと身近な例も出しましょうか。
例えば、2024年問題という運送業界全般が人手不足となり、配達業務が困難になる事象があります。
それは運送業の労働環境の悪さなどが原因なのですが、なぜか肉体労働が軽視される日本では「そんな仕事しかできないのは努力が足りなかったからだ」と自己責任論をぶつけられます。
結局最終的に困るのは自分なのにです。
運送物が届かない、遅れる、料金が高くなる。
自分の身に降りかかるということまで思い至らないんです。
例えば2025年問題で迎える超高齢化社会では介護要員が不足し、大混乱に陥ると示唆されいます。
それなのに介護士の労働環境も待遇も悪く、あまつさえ「そんな仕事しかできないのは努力が足りなかったからだ」と自己責任論を押し付けます。
あなたに親はいないのですか?あなたの親は誰が介護するのですか?
自己責任論を信じ続けてきた我々に、近い将来その現実が突きつけられます。
自己責任=自分だけで完結することなんてありえないんです。
見出しのとおり『自己責任論を振りかざしても結局は連帯責任になる』ってことなんです。
思えば、『自己責任論はいずれ自分に返ってくる』というのと同義ですね。
もっと成熟した社会を目指すのなら、自己責任論社会からは脱しなければならないのです。
まとめ
日本人が好きな自己責任論は正しくないということを書いてみました。
日本人というものは世界的に見ても温和で優しい民族だと思われていますが、今の日本社会は冷たい自己責任論が闊歩するような冷たい社会となってしまいました。
高度経済成長期からバブル時代までなら日本人が誰でも心に余裕を持てただろうし、助け合うだけの余力もあったことでしょう。
みんな余裕がない中、変に競争をしているように思います。
自分の正当性を確立させるために、他者を蹴落としているようにも見えます。
悪い意味での自己責任ではなく、良い意味での連帯責任で社会を良くしていきたいものです。
以上、ユウスケがお送りしました。