『魂は存在しないし人間死んだら終わり』の唯物論者って道徳的にヤバくない?

理論武装コラム

「『魂』の存在を信じますか?」と街中の人に聞けば「何かの宗教の勧誘か?」などと怪しまれてしまいそうですが、そのことについて考えたことがない人は少数でしょう。

人が生きている限り、『魂』という存在を意識せざるを得ない日はあるでしょうから。

しかし「魂は存在しないから人間死んだら終わり」なんて考えを持つ人も存在します。

でもそれって人間的に道徳的にヤバくないですか?

魂なんて存在しなくて人間は死んたら終わり!?

人間というものよくわからないうちに生み出され、よくわからず生きて、よくわからないまま死んでいきます。

私がなぜ今生きているのかも謎だし、今あなたが生きていてこの記事を読んでいることも不思議です。

そんな社会のなかで「死んだら全て終わり。何も残らない。消滅して無になる」という人がいます。

唯物論者と呼ばれる人たちのことですね。

マルクス主義(科学的社会主義)により大きく広まったとされる思想です。

学者ではないので詳しくは知らないのですが、大雑把に要約すると『全ては科学で立証されるべきものであり、心(魂)は体の機能でしかない』といったものです。

つまり肉体が死んだら魂も死ぬということであり、死=全ての終わりということになります。

まるで人間も機械も同じだとでも言いたげな理論ですよね。

確かにこの世界で死んだらこの世界では文字通り終わりですが、今生きている身としては無になるというのは嫌ですね(笑)

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『人間は物』という唯物論者に本当の意味で人間を愛せるだろうか

唯物論のことを極論的に言うと『世界には物しか存在しない』という考えのことですから、動物も物、植物も物、人間も物と考えます。

確かに全てのものは同じ物(原子)で成り立っているのでそうとも言えるわけですが、人間までを『物』というのはあまりにも酷い考えだとは思いませんか?

極論で『人間は物』という考えの人がいるとしましょう。

その人が誰かを愛してもそれは物に愛着があることと同じことになってしまいます。

どんなに触れ合い愛し合ってもそれはただの物理現象にすぎず、どんなに愛を囁きあってもそれは声の振動が起こっただけにすぎないんです。

普段から意識はしていなくても、その考えが根底にある人は本当の意味で人を愛せるのでしょうか?

霊的なものを全肯定せずとも、魂や魂的なものを信じていない人を信用できますか?

きっと声には出さなくても、多くの人はみんな魂(魂的なもの)の存在を信じているんじゃないかなぁと思いますよ。

まとめ

「魂なんて存在しない!」と心から思っている人ってなんか人間味なくてちょっと怖いですよね……。

でも「魂はある!」なんて悪魔の証明的なこと、生きている間は誰にも立証はできないのが歯がゆいところです。

大場つぐみ×小畑健の名作デスノートのリュークいわく「デスノートを使った人間が天国や地獄に行けると思うな」「死は、無だ」だそうですが、後の大場つぐみ×小畑健の作品プラチナエンドでは天界が存在します。

デスノートは唯物的な思想から物語を紡ぎ、プラチナエンドはその反対を描いたもののようにも思えます。

いつか私が死んだとき、そこには何かしらの世界が広がっていればいいなと思いました。